-M*H--M*H-

Under the table

お一人様2個まで

  新刊は、「Under the sea」「Under the rose」シリーズの続きです。 一話完結ものなので、単独でもお読みいただけます。 上記2作は再録本「Re:M*H-2-」に収録されておりますので、よろしければご一緒にお読みいただけますと幸いです。 パロディものです。 客船でコントラバスを弾きながら生計を立てているカリエドさんと、 海の見える街で不思議な雑貨屋さんを営んでいるカークランドさんのお話。 今回もカリエドさんは、カークランドさんの家に居候。 またもや不思議なことに巻き込まれてしまいます。 ちょっぴりホラーテイストを目指した、不思議なお話です。 【サンプル】  冴えた冬の空の下。  彼の口元から旅立った白い煙が、見えない階段を登っていく。右へ上り、左へ上り、やがて煙は見えなくなっていく。風もないのに不思議な動きを見せる煙を、しかし彼は特に気にする様子もなく、ただ遠くの海岸線を見つめていた。  ベランダから見える町は、静かに寝静まっているように見える。そんな中、町を起こさないように、静かに、けれど確かな灯りを持って、灯台が海を照らしている。  真っ黒な海の上には、あの灯りを目指して航海を続けている船がいるのだろう。  彼はふっと口元を緩め、蔦の絡まりあった柵にもたれかかった。頬杖を突き、空と海の境界線を見つめる。  夜の天井からは、星が吊るされ、ちかちかと瞬いている。時折、笑い声が聞こえるのは、きっと星たちが噂話をしているからだ。  彼は煙草を咥え、セーターのポケットに仕舞っていた封筒を取り出した。かさかさと紙の乾いた音が慎ましげに鳴る。開くと、ほんのりとそれは海の匂いがした。差出人の名前は、カリエド。彼の友人だ。  どこからか、鼻歌が聞こえた。立ち止まり、コントラバスを背負い直す。 『カンブリックのシャツを作れと伝えておくれ』  少し掠れた、高めのテノールが冷たい空気を微かに震わせている。 『縫い目も。針仕事もなしで。』  声に導かれるように、男は舗道を進む。ある雑貨家の前にたどり着く。扉の前には黒猫の置物が鎮座し、ドアノブには『close』の札が提げられていた。正面の扉を無視し、壁沿いに進む。蔦に絡まった、腰ほどの高さの門戸を開けた。冬だというのに生い茂った草花のトンネルをくぐりぬけ、声の元へと向かった。  煙草の煙をくゆらせながら、遠い海岸線へ視線を向けている彼を見つけ、男はほっと息を吐いた。まだ彼はこちらに気が付いていないようだった。なるべく音を立てないように、コントラバスを取出すと、彼の歌に合わせて弦を鳴らした。  一瞬、歌声が止まる。しかしすぐに気を取り直したのか、男の演奏に合わせて、歌い続けた。 『緑深い丘の斜面に』 『雪に残ったすずめの跡をたどり、山頂へ』  歌声は、遠くなる。かと思えば、少しずつ少しずつ、男の元へと降りてくるようだった。歌声が止む。手を止めて首だけで振り返ると、オイルランプを持った彼が、扉にもたれ掛ってこちらを見ていた。 「スカーボロ・フェアへ行くのか」  歌詞に含まれる問いかけには答えず、「久しぶり」とだけ呟いた。  寒い中を歩いてきたせいで、声がうまく出なかった。掠れ声の挨拶に、彼はぎこちない笑みを浮かべていた。顎で「入れ」と示される。彼はすぐに家の中へ消えていく。コントラバスをしまう。扉をくぐり、鍵を閉めた。  室内は相変わらず雑多とした空間だった。しかし、居住空間のこの部屋は、まだましだということもカリエドは知っている。彼の生業としているらしい雑貨家としてのスペースは、更に混沌としている。そこには不思議な異国のお面や、多くのハーブが天井から吊り下げられている。窓際に置かれたフラスコには、きらきらと光る鉱石がぎっしりと詰められ、午後には柔らかな光を通し、店内を淡く照らす。  キッチンを通り抜け、暖炉のある部屋へ向かう。ことん、とオイルランプを置く音が聞こえた。  部屋へ入ると、彼が暖炉に火をくべているところだった。楽器ケースをおろし、壁際に立てかける。ウールのセーターを着た彼の背中がとても暖かそうに見えて、カリエドはその背中に手を伸ばした。火の勢いを強くしようとふいごを持っている彼を、抱きしめた。暖かそうに見えた彼は、しかし外気に触れていたせいかとても冷たかった。  彼のくすんだハニーブロンドに顔をうめる。ハーブの混ざり合った香りがした。 「おい、やめろ」 「寒いやんか」 「だから今、部屋を暖かくしてやろうと……、ん」  文句を言おうと顔を上げた彼の唇を塞ぐ。腕の中で身体を反転させて、深く口付けた。 「なんか、不思議な味がする」 「……煙草のせいだろ」  するりと腕の中を抜け出していく彼を追いかけず、カリエドはソファに腰掛けた。暖炉の中の火を使い、彼は湯を沸かした。少しずつ部屋が温もりに満ちてきた。航海にも耐えられるような、厚手のコートを脱ぐ。  Polly Put the Kettle On,,,  Polly Put the Kettle On,,,  彼の口ずさむ唄に合わせて、こぽこぽと、ケトルの中の水が優しい音を立てる。かさこそと、何か小さなものが走りまわる音が聞こえるような気がした。かたん、と何かを動かす音に、風が通りぬける音。この家は、さまざまな生き物の気配を感じる。  クロスがかけられたテーブルの上には、クッキーがたくさん入った籠が置いてある。隣に置かれたオイルランプが、優しく籠を照らす。  彼がキッチンへと向かうためにカリエドの前を通り抜ける。抱きしめた時に嗅いだ不思議な匂いが鼻をかすめた。少し苦い香りだった。  We`ll all have tea.  すぐに彼はポッドとカップを持ち、戻ってくる。ケトルから思い切りポッドに湯を注いだ。暖かな湯気が天井へとのぼる。カップを渡される。じんわりと身体の奥が暖まる。 「また、世話になってもええ」  中身を半分ほど空にしてから、カリエドは彼に聞いた。暖炉の傍から離れない彼は、両眉を上げて肩をすくめた。 「駄目だと言ったらどうするんだ」  そうして、そんな無意味な、意地悪な言葉を返す。彼の雰囲気から、厄介になってもいいことは分かっている。追い出すつもりならば、最初から招き入れたりなどしないことは、何度目かの来訪で知っていた。 「駄目やって言われたら、船に戻るしかないわ」  船の上を演奏の場としているカリエドは笑いながら言う。 「……せっかく停泊してるのに、船の上じゃ気の毒だからな。いいぜ」  彼は窓のほうへ歩いて行った。窓は真っ白になっていた。それを指でこする。円を描き、その中に何やら文字を書き入れていた。カップの中のハーブティーを一口飲んでから、すぐにそこに吐息を吹きかける。 「ただ、約束がある。守れるか」 「約束によっては」 「そうか。」  出窓に腰掛け、突然、彼は語りだした。 「ある話を聞かせてやろう」  むかしむかし、といっても、今より少しだけ前の話だ。  ある海岸沿いの街には、休耕期になると大きな市が開かれていたそうだ。  毎年その時期になると、多くの商人が行き交うようになる。  世界各地からの様々な品が集い、商人や旅人は浮足立っていく。  そんな道の脇。街と街の間には、一軒の貧しい家があった。  その家には小さな少女が住んでいた。  彼女には大きな任務があったらしい。庭の畑で採れた野菜を旅人や商人に売りつけるという大きな任務が。  うまくいけば、大好きなママがクッキーを焼いてくれる。  うまくいかなければ、ご飯にありつけない。  だから彼女は小さな体で、大きな籠を持ち、一生懸命に語りかける。 『海の街の市へ行くの?』 『畑で採れた新鮮な野菜はいかがですか』  来る日も来る日も、彼女は旅人へ語りかける。  優しい旅人がいる日はとても幸運。  大好きなママが優しいから。  飼っている牛も、どうにかこうにか乳を出してくれる。  ご褒美にもらえるクッキーは、ぼそぼそと味気ないが、それでも彼女にとってはご馳走だった。  そんな毎日を送っていたある日。  一人の商人が、彼女に声をかけた。 『お嬢さん。お嬢さん。君は野菜を売っているのかな』 『そうです。これを売らないと、家に帰れないんです』 『そうかい。そうかい。それなら、私が全て買ってあげよう』 『ありがとうございます。優しい商人のお方。貴方は海のある街の市へ向かうのですか』 『そうだよ。その通りだよ。可愛らしいお嬢さん』 『そこはどんなところなのですか』 『どこまでも広がる海岸線が見える、それはそれは綺麗なところだよ、お嬢さん』  商人は、にっこり笑う。 『行ってみるかい。お嬢さん。そこはとっても、綺麗で素敵なところだよ』  その言葉に、少女は手を伸ばした。  けれど、彼女は海を見ることなく、星空の下に投げ出されてしまった。  え、なんでかって。  そんな野暮なこと、聞くなよ。  その日から、彼女は衰弱していった。なぜだろうな。病に伏せってしまったんだよ。  親兄弟からも避けられて、居場所のなくなった可哀そうな彼女は、それでも毎日野菜籠を提げて旅人達へ声をかける。 『どうか。どうか野菜を買ってはくれませんか』  けれど誰が衰弱しきった少女から野菜を買うものだろうか。  家はどんどん貧しさを増し、牛は痩せ、とうに乳が出なくなってしまった。  畑も痩せ衰え、とうとう作物が実らなくなってしまった。  少女だけではなく、親兄弟たちも、まるで病人のような有様。  いつしか彼女の呼び声は変わっていった。 『どうか。どうか。私を海の街の市へ連れて行ってはくれませんか』 『君が針を使わず、縫い目のないカンブリックのシャツを縫えたらね』 『どうか。どうか。私を海の街の市へ連れて行ってはくれませんか』 『君があの枯れた井戸でシャツを洗うことが出来たらね』  誰も撮りあわず、とうてい叶いそうにない無理難題を突き付けられるばかり。  陽が上り、月が上り、星が沈む。  それが何度となく続いた日。  母親は、あるスープを作った。  久しぶりの温かなスープ。  父親はとても喜んだ。  兄弟たちはそれを無邪気に飲み干し、白い玩具を手にして、テーブルの下で遊び回った。  そこに、少女の姿はいなかった。  けれど時折、海のある街へ続く道の脇で、声がするんだ。 『海のある街の市へ、行くのですか』  その問いに答えるとどうなるか、おまえでも分かるだろう。  旅人たちは、少女の声に耳をふさぎ、4つのハーブを唱える。  パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。 「……」 「そんな怖い顔するなよ。俺たちが守らなければいけないことは、とても簡単なことだけだ」  一つ。他人の焼き菓子は奪わないこと。  一つ。姿の見えない呼び声には答えないこと。  一つ。姿が見えても、彼らの呼び声には答えないこと。 「わかったか?」 「わかった」 「気を付けろよ。お前はふらふらしてるんだから」 「ふらふらしとんのは、アーサーのほうやないの」  意味を持たせて、膝をぶつける。彼は肩を竦めるだけだ。否定もしない。恋人ではないので、咎める道理もないけれど、なんとなく面白くないとカリエドは頬を膨らませた。 「……お前ってやつは、ほんと」  すると彼は困ったような、むずがゆそうな、不思議な表情を浮かべたまま眉を寄せる。そのまま空になったカップを奪われた。籠の隣に、仲良く二つのカップが並ぶ。  くるりと振り返った彼の顔は、真剣なものに戻っていた。 「困ったときは、おまじないだ。いいか。パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。忘れるなよ」 「パセリ、セージ、ローズマリーにタイム」 「パーフェクト。そうだ」  大きく頷き、暖炉の火を消す彼に、カリエドは慌てて声をかける。 「ちょ、さすがに消されると寒いんやけど……」  かまわずに火の処理を進めてる彼の傍へ寄ると、こつん、と胸を叩かれた。 「一人は寒いからな。上に行こう」 「……行く」 「いい子だ」  不意打ちに額に口付けられ、柄にもなく赤くなってしまう。すると彼は楽しそうに笑い、ランプを持って部屋を出て行ってしまった。

  新刊は、「Under the sea」「Under the rose」シリーズの続きです。 一話完結ものなので、単独でもお読みいただけます。 上記2作は再録本「Re:M*H-2-」に収録されておりますので、よろしければご一緒にお読みいただけますと幸いです。 パロディものです。 客船でコントラバスを弾きながら生計を立てているカリエドさんと、 海の見える街で不思議な雑貨屋さんを営んでいるカークランドさんのお話。 今回もカリエドさんは、カークランドさんの家に居候。 またもや不思議なことに巻き込まれてしまいます。 ちょっぴりホラーテイストを目指した、不思議なお話です。 【サンプル】  冴えた冬の空の下。  彼の口元から旅立った白い煙が、見えない階段を登っていく。右へ上り、左へ上り、やがて煙は見えなくなっていく。風もないのに不思議な動きを見せる煙を、しかし彼は特に気にする様子もなく、ただ遠くの海岸線を見つめていた。  ベランダから見える町は、静かに寝静まっているように見える。そんな中、町を起こさないように、静かに、けれど確かな灯りを持って、灯台が海を照らしている。  真っ黒な海の上には、あの灯りを目指して航海を続けている船がいるのだろう。  彼はふっと口元を緩め、蔦の絡まりあった柵にもたれかかった。頬杖を突き、空と海の境界線を見つめる。  夜の天井からは、星が吊るされ、ちかちかと瞬いている。時折、笑い声が聞こえるのは、きっと星たちが噂話をしているからだ。  彼は煙草を咥え、セーターのポケットに仕舞っていた封筒を取り出した。かさかさと紙の乾いた音が慎ましげに鳴る。開くと、ほんのりとそれは海の匂いがした。差出人の名前は、カリエド。彼の友人だ。  どこからか、鼻歌が聞こえた。立ち止まり、コントラバスを背負い直す。 『カンブリックのシャツを作れと伝えておくれ』  少し掠れた、高めのテノールが冷たい空気を微かに震わせている。 『縫い目も。針仕事もなしで。』  声に導かれるように、男は舗道を進む。ある雑貨家の前にたどり着く。扉の前には黒猫の置物が鎮座し、ドアノブには『close』の札が提げられていた。正面の扉を無視し、壁沿いに進む。蔦に絡まった、腰ほどの高さの門戸を開けた。冬だというのに生い茂った草花のトンネルをくぐりぬけ、声の元へと向かった。  煙草の煙をくゆらせながら、遠い海岸線へ視線を向けている彼を見つけ、男はほっと息を吐いた。まだ彼はこちらに気が付いていないようだった。なるべく音を立てないように、コントラバスを取出すと、彼の歌に合わせて弦を鳴らした。  一瞬、歌声が止まる。しかしすぐに気を取り直したのか、男の演奏に合わせて、歌い続けた。 『緑深い丘の斜面に』 『雪に残ったすずめの跡をたどり、山頂へ』  歌声は、遠くなる。かと思えば、少しずつ少しずつ、男の元へと降りてくるようだった。歌声が止む。手を止めて首だけで振り返ると、オイルランプを持った彼が、扉にもたれ掛ってこちらを見ていた。 「スカーボロ・フェアへ行くのか」  歌詞に含まれる問いかけには答えず、「久しぶり」とだけ呟いた。  寒い中を歩いてきたせいで、声がうまく出なかった。掠れ声の挨拶に、彼はぎこちない笑みを浮かべていた。顎で「入れ」と示される。彼はすぐに家の中へ消えていく。コントラバスをしまう。扉をくぐり、鍵を閉めた。  室内は相変わらず雑多とした空間だった。しかし、居住空間のこの部屋は、まだましだということもカリエドは知っている。彼の生業としているらしい雑貨家としてのスペースは、更に混沌としている。そこには不思議な異国のお面や、多くのハーブが天井から吊り下げられている。窓際に置かれたフラスコには、きらきらと光る鉱石がぎっしりと詰められ、午後には柔らかな光を通し、店内を淡く照らす。  キッチンを通り抜け、暖炉のある部屋へ向かう。ことん、とオイルランプを置く音が聞こえた。  部屋へ入ると、彼が暖炉に火をくべているところだった。楽器ケースをおろし、壁際に立てかける。ウールのセーターを着た彼の背中がとても暖かそうに見えて、カリエドはその背中に手を伸ばした。火の勢いを強くしようとふいごを持っている彼を、抱きしめた。暖かそうに見えた彼は、しかし外気に触れていたせいかとても冷たかった。  彼のくすんだハニーブロンドに顔をうめる。ハーブの混ざり合った香りがした。 「おい、やめろ」 「寒いやんか」 「だから今、部屋を暖かくしてやろうと……、ん」  文句を言おうと顔を上げた彼の唇を塞ぐ。腕の中で身体を反転させて、深く口付けた。 「なんか、不思議な味がする」 「……煙草のせいだろ」  するりと腕の中を抜け出していく彼を追いかけず、カリエドはソファに腰掛けた。暖炉の中の火を使い、彼は湯を沸かした。少しずつ部屋が温もりに満ちてきた。航海にも耐えられるような、厚手のコートを脱ぐ。  Polly Put the Kettle On,,,  Polly Put the Kettle On,,,  彼の口ずさむ唄に合わせて、こぽこぽと、ケトルの中の水が優しい音を立てる。かさこそと、何か小さなものが走りまわる音が聞こえるような気がした。かたん、と何かを動かす音に、風が通りぬける音。この家は、さまざまな生き物の気配を感じる。  クロスがかけられたテーブルの上には、クッキーがたくさん入った籠が置いてある。隣に置かれたオイルランプが、優しく籠を照らす。  彼がキッチンへと向かうためにカリエドの前を通り抜ける。抱きしめた時に嗅いだ不思議な匂いが鼻をかすめた。少し苦い香りだった。  We`ll all have tea.  すぐに彼はポッドとカップを持ち、戻ってくる。ケトルから思い切りポッドに湯を注いだ。暖かな湯気が天井へとのぼる。カップを渡される。じんわりと身体の奥が暖まる。 「また、世話になってもええ」  中身を半分ほど空にしてから、カリエドは彼に聞いた。暖炉の傍から離れない彼は、両眉を上げて肩をすくめた。 「駄目だと言ったらどうするんだ」  そうして、そんな無意味な、意地悪な言葉を返す。彼の雰囲気から、厄介になってもいいことは分かっている。追い出すつもりならば、最初から招き入れたりなどしないことは、何度目かの来訪で知っていた。 「駄目やって言われたら、船に戻るしかないわ」  船の上を演奏の場としているカリエドは笑いながら言う。 「……せっかく停泊してるのに、船の上じゃ気の毒だからな。いいぜ」  彼は窓のほうへ歩いて行った。窓は真っ白になっていた。それを指でこする。円を描き、その中に何やら文字を書き入れていた。カップの中のハーブティーを一口飲んでから、すぐにそこに吐息を吹きかける。 「ただ、約束がある。守れるか」 「約束によっては」 「そうか。」  出窓に腰掛け、突然、彼は語りだした。 「ある話を聞かせてやろう」  むかしむかし、といっても、今より少しだけ前の話だ。  ある海岸沿いの街には、休耕期になると大きな市が開かれていたそうだ。  毎年その時期になると、多くの商人が行き交うようになる。  世界各地からの様々な品が集い、商人や旅人は浮足立っていく。  そんな道の脇。街と街の間には、一軒の貧しい家があった。  その家には小さな少女が住んでいた。  彼女には大きな任務があったらしい。庭の畑で採れた野菜を旅人や商人に売りつけるという大きな任務が。  うまくいけば、大好きなママがクッキーを焼いてくれる。  うまくいかなければ、ご飯にありつけない。  だから彼女は小さな体で、大きな籠を持ち、一生懸命に語りかける。 『海の街の市へ行くの?』 『畑で採れた新鮮な野菜はいかがですか』  来る日も来る日も、彼女は旅人へ語りかける。  優しい旅人がいる日はとても幸運。  大好きなママが優しいから。  飼っている牛も、どうにかこうにか乳を出してくれる。  ご褒美にもらえるクッキーは、ぼそぼそと味気ないが、それでも彼女にとってはご馳走だった。  そんな毎日を送っていたある日。  一人の商人が、彼女に声をかけた。 『お嬢さん。お嬢さん。君は野菜を売っているのかな』 『そうです。これを売らないと、家に帰れないんです』 『そうかい。そうかい。それなら、私が全て買ってあげよう』 『ありがとうございます。優しい商人のお方。貴方は海のある街の市へ向かうのですか』 『そうだよ。その通りだよ。可愛らしいお嬢さん』 『そこはどんなところなのですか』 『どこまでも広がる海岸線が見える、それはそれは綺麗なところだよ、お嬢さん』  商人は、にっこり笑う。 『行ってみるかい。お嬢さん。そこはとっても、綺麗で素敵なところだよ』  その言葉に、少女は手を伸ばした。  けれど、彼女は海を見ることなく、星空の下に投げ出されてしまった。  え、なんでかって。  そんな野暮なこと、聞くなよ。  その日から、彼女は衰弱していった。なぜだろうな。病に伏せってしまったんだよ。  親兄弟からも避けられて、居場所のなくなった可哀そうな彼女は、それでも毎日野菜籠を提げて旅人達へ声をかける。 『どうか。どうか野菜を買ってはくれませんか』  けれど誰が衰弱しきった少女から野菜を買うものだろうか。  家はどんどん貧しさを増し、牛は痩せ、とうに乳が出なくなってしまった。  畑も痩せ衰え、とうとう作物が実らなくなってしまった。  少女だけではなく、親兄弟たちも、まるで病人のような有様。  いつしか彼女の呼び声は変わっていった。 『どうか。どうか。私を海の街の市へ連れて行ってはくれませんか』 『君が針を使わず、縫い目のないカンブリックのシャツを縫えたらね』 『どうか。どうか。私を海の街の市へ連れて行ってはくれませんか』 『君があの枯れた井戸でシャツを洗うことが出来たらね』  誰も撮りあわず、とうてい叶いそうにない無理難題を突き付けられるばかり。  陽が上り、月が上り、星が沈む。  それが何度となく続いた日。  母親は、あるスープを作った。  久しぶりの温かなスープ。  父親はとても喜んだ。  兄弟たちはそれを無邪気に飲み干し、白い玩具を手にして、テーブルの下で遊び回った。  そこに、少女の姿はいなかった。  けれど時折、海のある街へ続く道の脇で、声がするんだ。 『海のある街の市へ、行くのですか』  その問いに答えるとどうなるか、おまえでも分かるだろう。  旅人たちは、少女の声に耳をふさぎ、4つのハーブを唱える。  パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。 「……」 「そんな怖い顔するなよ。俺たちが守らなければいけないことは、とても簡単なことだけだ」  一つ。他人の焼き菓子は奪わないこと。  一つ。姿の見えない呼び声には答えないこと。  一つ。姿が見えても、彼らの呼び声には答えないこと。 「わかったか?」 「わかった」 「気を付けろよ。お前はふらふらしてるんだから」 「ふらふらしとんのは、アーサーのほうやないの」  意味を持たせて、膝をぶつける。彼は肩を竦めるだけだ。否定もしない。恋人ではないので、咎める道理もないけれど、なんとなく面白くないとカリエドは頬を膨らませた。 「……お前ってやつは、ほんと」  すると彼は困ったような、むずがゆそうな、不思議な表情を浮かべたまま眉を寄せる。そのまま空になったカップを奪われた。籠の隣に、仲良く二つのカップが並ぶ。  くるりと振り返った彼の顔は、真剣なものに戻っていた。 「困ったときは、おまじないだ。いいか。パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。忘れるなよ」 「パセリ、セージ、ローズマリーにタイム」 「パーフェクト。そうだ」  大きく頷き、暖炉の火を消す彼に、カリエドは慌てて声をかける。 「ちょ、さすがに消されると寒いんやけど……」  かまわずに火の処理を進めてる彼の傍へ寄ると、こつん、と胸を叩かれた。 「一人は寒いからな。上に行こう」 「……行く」 「いい子だ」  不意打ちに額に口付けられ、柄にもなく赤くなってしまう。すると彼は楽しそうに笑い、ランプを持って部屋を出て行ってしまった。