百鬼夜行譚 ~巡る水~
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柊英(蛟×白蔵主)/百鬼夜行パロディ/文庫サイズ/P43/和綴じ手製本 *手製本のため、仕上がりにムラがあります。 *表紙の用紙は変更になる可能性があります。 四季をお題にした、二人の、ある一年を綴ったお話です。 昨年のEP2観劇後からずっと出したいと願っていた百鬼夜行本が出せてとても嬉しいです。 細かい部分は、ご自由に夢想いただければと願う、そんな奇譚集でございます。 モトイさん(@100erg)に中表紙と扉絵を描いていただきました。 本当にありがとうございます……!!
サンプル文
白い花が梢を覆うように咲き、強い香りが動物たちを浮き足だたせる。そんな季節。一匹の狐が旅に出た。初めて彼と出会った頃と同様、とても身軽な姿だった。旅笠をかぶり、影になった口元。しかし、それは春の陽射しのように柔らかだ。 秋には戻ってくるね。 梅のように淡く色づいた唇は、緩やかな弧を描いていた。彼が人里へ下りるのは決して珍しいことではない。しかし、会いたいと願い、それが叶わなくなるほどの長の不在は、久方ぶりであった。 久しぶりに、俺が育った集落を見に行ってみようと思うんだ。そう、彼が蛟へ告げたのは、冬の終わり。蝋梅をちらほらと見かけるようになった頃。きっと彼にも何か思うことがあったのだろう。既に旅の準備は始まっていて、その様子からいくつか山を越えるつもりらしいことが分かった。山の雪が溶けはじめ、流れ行く音が遠くから聞こえてくる。蝋細工のような花が冬の光に透け、蛟の瞳を潤した。蛟は、そうか、としか言うことが出来なかった。 彼のもともとの故郷は、この山よりも北方に位置している。彼の歩みとともに、春が北上していくのだろう。 彼は、銅で出来た鈴の音のように笑う。柔らかな音色は和らぎを与え、邪気を払う力があるかのよう。力を蓄え、命が眠る冬。その終わりを告げるように、一歩一歩大地を踏みしめ、春を呼び覚ます。彼の足下から、新たな命が生まれる。彼の故郷では、古来より狐が田植えの手伝いを行っていたというから、きっと今回の旅も、それが関係しているのだろう。 気をつけて。 蛟が、狐の頬へ触れる。 ほんの少し、彼のほうが身丈が大きいものだから、蛟の視線は自然と上向きとなる。笠の下の彼の瞳が細められた。感情が溢れ出るのが伝わる。だが、この感情に名をつけるには、蛟の心はあまりにも疎かった。幼かった。ものを知らなかった。 ただ、狐から溢れ出でる感情を受け止めると、花が開くような、そんな気持ちが心の奥で芽生えるのを感じる。行かせたくない、と。そんな言葉が頭の片隅によぎる。離したくない。側にいたい。明日も、明後日も、その先も。ともに在り、寄り添っていたい。 だが、蛟には春の霞のような朧気なこの感情に、名前をつけることが出来なかった。蛟にはよく分からないものだった。だから、目を背けた。 例えば人であれば、この心の形をどんな言葉で表現するのだろうか。どんな呪を与え、縛るのだろうか。 ありがとう。 狐の頬がそっと蛟の手に寄り添い、柔らかな体温がじんわりと伝染する。 いってきます。 するり、と掌からすり抜けていく温もり。小さな白い、こぶしの花がこぼれ落ちるように、彼はわずかな香りを残して、この手から離れていってしまった。 春の別れから、数日。蛟は、湖のほとりに咲くこぶしの木から、遠く連なる山々を眺めていた。命は目覚め、緑は芽吹き、動物たちも戯れる春。人々の営みも、自然と晴れやかとなっていく。 風に耳を澄ませる。 彼のいない春。 風に乗って、人の子らの歌声が聞こえてくる。 植えい 植えい 早乙女よ 実りの願いが水の神へと届く。 [春…田打桜]